映画「ザ・ロード」の封切りが近い

文明が失われて10余年。荒廃した都市を捨て、父と子は南に向かった。生きるために。善き光を未来へと運ぶために。

ノーカントリーの原作者コーマック・マッカーシーの「ザ・ロード」が映画化。6/26に公開。いやあ待ってました。主演は「ヒストリーオブバイオレンス」や「イースタンプロミス」のビゴ・モーテンセン。モテまくりのくせにモーテンセン。



以下、ノーカントリーのネタバレあり。注意。

コーマック・マッカーシーというのは現代アメリカ文学を代表する作家で、作風は保守系キリスト教的世界観が色濃いというか、倫理的で禁欲的というか。

ノーカントリーこと「血と暴力の国」はクライムストーリーで今度の「ザ・ロード」は近未来SF。イロモノ作家かと勘違いしそうだけれど、もちろん違います。いや別にミステリーやSFが悪いわけじゃないけれど。

たとえばノーカントリーを犯罪映画だと思ってみてると、わけがわからない部分が沢山出てくる。殺し屋シュガーなんて、あまりに超人的で現実感が薄いし、最後のほうで保安官がつぶやく夢の話とかも意味不明だし。でもコーエン兄弟の映像が素晴らしくて、シュガー役のハビエル・バルデムの怪演が強烈な印象を残すから、あまり気にならなかったりするのは良かったのか悪かったのか。まあ映画の楽しみ方は人それぞれだけれど。



「じゃあノーカントリーのオチはどういう意味なんだよ。おめー説明してみろよ。えらそーに」と言われるちょっと自信がないんだけど。まあ一言で言えば、悪いことしちゃダメよ。神様は見てるよって感じか。なんじゃそら。


いや、はしょり過ぎだな。たとえば映画「ダークナイト」で敵役だったジョーカーは、いわば人間を誘惑し堕落させるメフィストフェレス的な役回りだったのに対して、ノーカントリーのシュガーは疫神というか天変地異というか、人知を越えた厄災のメタファーだったんだよね。コイン投げの結果で殺されちゃかなわないんだけど、現実の世の中ではシンナーでラリった高校生の車にひき殺されるような、理不尽で不幸な出来事だってあるわけで。

話の中でトミー・リー・ジョーンズ扮する保安官は、すんでの所でシュガーの魔手から逃れる。ここがポイント。真面目な保安官を父に持つ彼は、平気で人を殺す連中がウヨウヨしている今の世の中を住みにくいと感じながらも(そう、原題の「年寄りには住みにくい国」ってのはここからきてる)、ある種の使命感を持ち、それを貫いて生きてきた。そんな彼が、ほんのちょっとした偶然(というか神様の思し召し?)で生きながらえることができた。もちろん生死を分けたのが彼の実直な生き方だ、というのはあんまりなんだけど、そう暗示させる展開ではある。

最後に語る夢の話は、まさにこの「使命感」という父から子へと伝えられた炎の事であり、それを守り抜いた息子を「先」の世界へと導く姿を連想させて、映画史に残る名シーンになったわけですよ。


今回の「ザ・ロード」も、文明が崩壊した理由とか、そういうことを気にしちゃダメです。謎のウィルスに息子が感染して48時間以内に治療薬を見つけないと、とか、バイクに乗ったモヒカン共をヒャホーと叫びながら皆殺しにするとか、そういう話だと思って観に行くと拍子抜けするので要注意。

荒廃した世界ってのは、まさに今現在の世界のメタファーであり、そこで人として善く生きる意味を父が子へ淡々と伝える、それが世代を越えてつながっていくことで人間はよりよくなっていくんだよ、絶やしちゃだめだよ、というのが根底にあるテーマ。


思うに日本の場合、団塊の世代はキレイ事を言ってる余裕もなく働き続け、その下の世代は斜に構えて権力を批判しながら真面目さを馬鹿にしてきた歴史がある。おかげでマッカーシーのような作家は根絶やしになっちゃったんだけど、そろそろこういう人が現れてもいいんじゃないかな。子供達に残してやれるのが善き光じゃなくて借金と失業じゃ、情けないからね。

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